ファインダーを覗いたときの、やさしい気持ち ―「たまゆら」感想・考察

アニメ・漫画

せろりんです。皆様は平素よりスマートフォンのカメラを、あるいはデジタルカメラを、人によってはフィルムカメラをお使いのことと存じます。ところでカメラの本質ってなんでしょうか。カメラというのは何をするための機械なのでしょうか。「風景を画像として記録するための機械」それは確かにその通りです。でも果たしてそれだけでしょうか?おれたちはカメラを通して風景を見ていると、ときどき嬉しくて楽しい気持ちになります。カメラが風景を記録するためだけの機械だとすれば、それほどハッピーな気持ちにはならないのではないでしょうか。カメラには、もっとマジカルでハッピーな秘められた機能があるのかもしれません。そういった、カメラが持つもう一つの機能を描いたのが「たまゆら」シリーズです。

※この記事にはアニメ「たまゆら」シリーズのネタバレがあります

(C)佐藤順一・TYA/たまゆら製作委員会/『たまゆら』 3話より

「たまゆら」シリーズは広島県竹原市が舞台の写真をテーマにしたアニメです。主人公は高校生の女の子・沢渡楓(さわたり ふう)です。一番左の人ですね。楓が父親の形見のフィルムカメラを通して成長する様子を描いたアニメが「たまゆら」です。

ちょうどおれが高校に進学するかどうかという時期にTVアニメ「たまゆら~hitotose~」が放送していて、当時かなりハマった記憶があります。そして、おれが高校を卒業する頃には完結編の映画「たまゆら~卒業写真~」が公開されたので、ちょっとこじつけて言えば主人公はおれとだいたい同じタイミングで高校に入学して、おれとだいたい同じタイミングで卒業したわけです。ちょうどおれは高校生のとき写真部に入っていたというのもあって、かなり思い入れのあるアニメです。最近再視聴したので感想を書く次第です。

さておれが趣味として写真をはじめて、挙げ句写真部に入るまでに至ったきっかけの写真がこれです。当時使っていたGalaxy Nexusだかなんだかというスマホで撮影したそのへんの花です。ハッキリ言って今見ると上手くもなんとも無いというか、むしろ超下手な写真で、失敗写真と言っても良いです。こうして皆様にお見せするのも恥ずかしいくらいで、手前の花にピントが合ってないし、背景のプランターや壁がハッキリ写り込んでいるし、全然上手くもなんとも無い写真です。ところがおれはこれを超綺麗に撮れたと勘違いして、しばらくスマホの壁紙にしていました。というのも、おれはこの角度で、この近さから花を見たことが無かったのです。

おれは当時から自分にあまり写真の技術やセンスが無いことに気づいていて、それはカメラのせいなんじゃないかと疑い始めていました。言い訳ではありますが当時のスマホのカメラはそれほど良いものではなかったというのもまた事実です。そこで家電量販店に入って、試しに一眼レフと呼ばれるようなデカくてゴツくて重くて高いカメラを使ってみたのです。

一眼レフを覗くと、絵の具を塗りたくったようなぼやけた風景が広がっています。シャッターボタンに指をかけると、オートフォーカスのモーターの音と一緒にぼやけていた風景が少しずつ鮮明になっていって、目の前にハッキリとした写真が広がります。おれはそれまで一眼レフなんて使ったことがなかったので、ぼやけていた風景に少しずつ焦点が合っていく様子に感動して、それからしばらくして中古でボロい一眼レフを買ったのでした。おれがデジタル一眼レフを買ったのは、性能が良いからではなく、ファインダーを覗いたときに見える綺麗な風景に憧れたからです。

(C)佐藤順一・TYA/たまゆら製作委員会/『たまゆら~hitotose~』 12話より

ところで主人公・楓(ふう)にはちょっとした特殊能力があります。楓が撮る写真には、ときどき白い光の玉が映り込むのです。光の玉は作中では「たまゆら」と呼ばれています。

何話か見ているとわかるのですが、「たまゆら」は、なんとなく心があたたまるようなシーンを撮影したときに映り込みます。この玉は一体何なんでしょうか。ここでTVアニメ1期「たまゆら~hitotose~」のエンディング「神様のいたずら」を聴いてみましょう。

神様のいたずら/中島愛(2コーラス.ver)

きみが指でつくるフレームには タンポポの綿毛が映り込むよ

エンディングはこんな一節から始まります。タンポポの綿毛というのはもちろん写真に映り込む「たまゆら」のことです。指でつくるフレームというのはその言葉のまま指を四角にして構えたときのフレームのことか、そうでなければきっとカメラのファインダーを比喩的に言っているのだろうと思います。

(C)佐藤順一・TYA/たまゆら製作委員会/『たまゆら』 1話より

主人公のカメラ・Rollei 35Sにくっついているファインダーはとても簡素なものです。Rollei 35Sの時期に人気があったカメラは、ファインダーに表示される情報を用いて厳密にピントを合わせることができるレンジファインダー式カメラや、見えた風景をそのまま撮影することができる一眼レフカメラといった、複雑な機構を伴ったファインダーを搭載したカメラばかりです。この時代のフィルムカメラの進化はファインダーの進化といっても過言ではありません。

一方でRollei 35Sは徹底的な小型化の影響によりファインダーが異常に簡素になっていてます。主人公が使っているカメラのファインダーには何の仕掛けもなく、仕組みで言えば「写ルンです」と同じものです。言ってしまえばファインダーというよりは「窓」とか「枠」に近いようなもので、感覚的には「指で作るフレーム」と何ら変わらない、とても簡素なものです。

ところで「きみが指でつくるフレームには タンポポの綿毛が映り込むよ」とはどういうことでしょうか。「指で作るフレーム」をRollei 35Sのフレームだと解釈した上でこの歌詞をもうちょっと簡単で詩的じゃない言葉に直すと「ファインダーにはたまゆらが映るよ」ということになります。

しかし、アニメ本編において「たまゆら」が映り込むのはファインダーではなく写真です。主人公も含め、写真を現像してみるまで「たまゆら」が写っているかどうかは誰にもわかりません。アニメの描写だけ見れば、たまゆらはファインダーに映るのではなくフィルムに映るのです。それを考えると、これはかなり疑問が残る歌詞だと言えます。もうちょっとアニメ本編を見ていきましょう。

(C)2015佐藤順一・TYA/たまゆら~卒業写真~製作委員会 『たまゆら~卒業写真~第一部 芽-きざし-』より

「楓はとっても楽しみにしていたんだけど、出来上がった写真は楓が思っていたのとは少し違っていたのね。でも、そのとき、お父さんは言ったの。」

「この光は、たまゆらって言うんだよって。たまゆらは楽しい気持ちが映っちゃったものなんだけど、なかなか撮れるものじゃないんだって。だからこの楓の写真はとってもすごいんだ。大丈夫なんだよ、ってね。」

(C)2015佐藤順一・TYA/たまゆら~卒業写真~製作委員会 『たまゆら~卒業写真~第一部 芽-きざし-』より

ここでは、たまゆらは写真を撮っているときの楽しい気持ちが映っちゃったものであると言及されています。たまゆらと呼ばれる白い玉は、「指でつくるフレーム」、つまりファインダーを通して被写体を見ているときの、楽しいような、嬉しいような、やさしい気持ちそのものなのです。おれたちがカメラで大切なものを撮るとき、それがRollei35だろうと、ボロい一眼レフだろうと、スマートフォンのカメラだろうと、浮かび上がったタンポポの綿毛のようなやさしい気持ちが、ファインダーを通して心の中に映っているのです。

(C)2016佐藤順一・TYA/たまゆら~卒業写真~製作委員会 『たまゆら~卒業写真~第四部 朝-あした-』より

車の心臓部はエンジンだって言うけど、じゃあカメラの心臓部はどこなんでしょうか。普通に考えればシャッターです。最初に言ったように、カメラは画像を記録するための装置です。そのためには、変化し続ける被写体から、シャッターで一瞬を切り取る必要があります。カメラが画像を記録するためだけの装置だとすれば、そのためにはシャッターが絶対に必要なのです。普通に考えればシャッターこそがカメラの最も重要な構成要素なのです。

ところが、「たまゆら~卒業写真~」で描かれるのは、楓の卒業式に出席して、シャッターが壊れてしまったRollei 35Sを構える楓の母親です。心臓部が壊れて、もはやカメラとは呼べなくなってしまったRollei 35Sを、楓の母親は何の意味があって構えるのでしょうか。カメラを遺してこの世を去った楓の父親に、楓の晴れ姿を見せるためでしょうか?それだけだったら、壊れたカメラなどではなく、普通に遺影でも抱えていればいい話です。シャッターが使えなくなったカメラを構えるのは、このカメラがまだ壊れていないから、つまりシャッターがカメラの心臓部ではないからです。

楓の母の声を代弁すれば・・・つまり、カメラは記録のための道具では無いのです。カメラは大切なものを見守るための道具で、その心臓部はファインダーなのです。ファインダーを覗いて、心にたまゆらの明かりを灯して、すこしやさしい気持ちになって、大切な人や町の成長を穏やかに見守ることこそがカメラの役割なのです。だからRollei 35Sは壊れてしまっても楓の部屋にいつまでも置いてあるし、楓や楓の父親は撮りたいものをファインダーのど真ん中で見守ることができる日の丸構図を好むのです。楓の一家が「ファインダーで見守る」というカメラの機能にこだわるのは、楓の家族が長年使ってきたRollei 35Sというカメラのファインダーが、指で作るフレームのようにシンプルなものだったからなのかもしれません。

「心がふわふわに舞い上がったときに映り込む光たち。私が撮ったのは、私の心だ。楽しかった日、嬉しかった日、悲しかった日。全てのあの日の私へ。」

「行ってきます。なので!」

完結編の最後に流れる楓のモノローグ。なんだかちょっと寂しさを感じる台詞です。他人行儀というか、Rollei 35Sを使っていた頃の自分を懐かしむような発言です。この時点で楓は超多機能なデジタル一眼レフに乗り換えてゴリゴリ写真の勉強をしているわけです。何も考えずにシンプルなファインダーから風景を見守っていた頃にはもはや戻れないのかもしれません。あの頃撮っていた日の丸の写真なんて今は撮ろうとも思わないのかもしれません。高校生の心に浮かんでいた白い玉は、もうあの頃と同じようには見えないのかもしれません。一度「行ってきます」を言えば全てが変わってしまい、タンポポの綿毛は芽を出してしまって、もう二度と元には戻らないのかもしれません。それでも、高校生の楓がみんなを見守っていたときの気持ちはぜんぶフィルムに残っていて、写真を眺めてみれば、いつだってあの頃の気持ちが「おかえりなさい」と言っているような気がするのです。

せろりんでした。

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