『スロウスタート』感想―校庭から地球の先ひとっ飛び!

アニメ・漫画

せろりんでーす。「スロウスタート」の最新話(まんがタイムきらら2020年06月号)がすごいことになっていてビックリしちゃいました。最新話を読んで完全に情緒がおかしくなってしまったので、スロウスタートという作品全体を通しての感想を書いていきます。

※この記事には「スロウスタート」単行本8巻(アニメ未放送)の内容を含む重大なネタバレがたくさん含まれています。

遠回りして良かったの?

「あ、俺、浪人してるんだよね」なんてセリフは、大学に入るとわりと頻繁に聞く言葉です。特に深刻そうな様子も無く、サラっと聞かされる言葉です。ぶっちゃけ。中には浪人経験を隠しながら大学に通っている人もいるとは思いますが、多くの場合、初対面で雑談していると5分以内に聞くことができるようなセリフです。なんで花名ちゃんは、5分で同じことが言えなかったんでしょうか?

花名ちゃんがアニメ1話の冒頭、一之瀬姓の宿命ゆえに(もしかすると宿命ではなく榎並先生のご配慮かもしれませんが)一番最初に自己紹介をすることになったあの瞬間に、「あ、私は中学浪人していて、ついでに今日誕生日なので皆さんより2歳上ですw」と、大学生の飲み会だったらそこそこ盛り上がること間違いなしの浪人告白をサラッとすることができなかったのは何故なんでしょうか。花名ちゃんが大学生ではなくて高校生だからでしょうか?いやいや、高校生で学年より歳が上って全国的に見たらかなりいるはずです。特殊な例かもしれませんが、おれの高校は中学浪人の方とか、よその高校を一度中退した方を伝統的にたくさん受け入れる学校だったし、ついでに留年する人も多かったので、同じ学年に2桁人くらいは歳が違う人がいました。それに、高校というものは意外とちょっとした理由で不合格になったり留年したりするので、星尾女子高校のような進学校に限った話をするとしても、探せば学年か学校に1人くらいは学年より年齢が上という人がいるはずです。そこまで珍しくはありません。

そもそも花名ちゃんが浪人することになった原因は流行性耳下腺炎、つまりおたふく風邪、つまり病気なのだから、浪人生のことをバカにしている謎の人間(驚くべきことに実在するみたいです)だって、花名ちゃんのことはバカにしないはずです。花名ちゃん、なんでちっぽけな隠し事を打ち明けるのに7年もかかっちゃったんですか?

7年(作中では1年未満)もかかっちゃった理由は、花名ちゃんが遠回りすることを悪いことだと思っていたから、そして花名ちゃんに運が無かったからです。

©篤見唯子・芳文社/スロウスタート製作委員会 『スロウスタート』10話より

「最初は、浪人してるってバカにされる、からかわれる、そういうのが怖かったんです。でも今は・・・関係が変わるのが怖い、です。」
「傍から見てる分には、話しても話さなくても変わらないと思うぞ、おまえらは。ま、あまり考えすぎるな。」

©篤見唯子・芳文社/スロウスタート製作委員会 『スロウスタート』10話より

浪人を隠している理由は、最初は「バカにされる」「からかわれる」「そういうのが怖かった」からです。うーんわかるぞ花名ちゃん。おれも浪人こそしていないですが、友達にもナイショにしているスローエピソードが実はあります。だからウッカリ話しちゃうとバカにされるかも、からかわれるかも、などという根拠のない不安を持つ気持ちは超わかります。

まあでも、それって被害妄想なんですよね。病気でつらい思いをした花名ちゃんのことをかわいそうだと思うことはあっても、公然とバカにしたり公然とからかったりする人なんて、絶対にどこにも一人たりとも存在しないとは言いませんけど、そう多くはないでしょう。つまり、花名ちゃんが考えていたことはほとんど被害妄想なわけです。いつものことではありますが、なんで花名ちゃんはそういう不合理な被害妄想をしてしまうのでしょうか?理由は簡単で、花名ちゃん自身が自分のことをバカにしたり、からかったりしているからです。

花名ちゃんという人間は、少なくとも星尾女子高校に入学した直後は、遠回りはいけないこと、してはいけないこと、意味のないこと、恥ずかしいことだと思っていました。

©篤見唯子・芳文社/スロウスタート製作委員会 『スロウスタート』1話より

「遠回りしてよかったでしょ?」

©篤見唯子・芳文社/スロウスタート製作委員会 『スロウスタート』1話より

アニメの1話では、花名ちゃんは浪人を隠したまま高校に入学して、浪人を隠したまま友達に誕生日を祝ってもらい、浪人を隠したまま桜並木を見に行きます。嫌なことや辛いことが続いた後に久しぶりに見る桜って本当に綺麗ですよね。ただし、このシーンにおいては、物理的に遠回りをして見た桜なんてものは、ぶっちゃけると、あってもなくてもどっちでもいいのです。ここで重要なのは、遠回りしたおかげで素敵な友達3人に出会えて、遠回りしなかったらおそらく出会わなかった3人が、年齢なんて関係なく自分のことを友達として受け入れてくれたことです。花名ちゃんはそういう経験をすることでやっと「遠回りしてよかった」と、なんとなく思い始めるようになったのです。

このイベントスチルを回収すると花名ちゃんは「バカにされるかも」「からかわれるかも」という根拠のない被害妄想をやめて、代わりに「関係が変わるのが怖い」と思うようになって、それからズルズルと7年の歳月が経過します(作中では1年未満)。

遠回りしてよかったでしょ。じゃあ近道は?

スロウスタートという作品は、主人公である花名ちゃんに目線を合わせて作られています。したがって、スタートがスロウで、しかもテンポもスローな人の漫画なのです。えっ!じゃあスタートが早くて、テンポも速い人はどうすればいいんでしょうか?遠回りすると良いことがあるかもしれないけど、近道したらどうなるのでしょうか。スロウスタートには人生の全部が描かれているはずなのに、そういうことは描かれていないんでしょうか?いやいや、ちゃんと描かれていますよ。

篤見唯子「スロウスタート」 『まんがタイムきらら』2020年06月号 (2020年5月9日発行) p.25

人間観察のプロ、コミュ力の神、ギャルゲーの鬼である十倉栄依子は、花名ちゃんが実は1歳年上であることを見事に予想していました。マジかよ・・・

スロウスタートには実は、十倉栄依子はクイックスターター、百地たまてはマイペースという設定があります。言及はされてないようですが、恐らく千石冠はスロースターターでしょう。この設定は全てのパラメーターに当てはまるわけではなく(当然ながら、十倉栄依子はマリンバを演奏することができません)、おそらく肉体的成熟度や対人スキルについての話です。公式設定でクイックスターター呼ばわりされている十倉栄依子は、花名ちゃんが実は年上であることに気づいていました。高1にして異常な精神的成熟を果たしていてハタチと言われても違和感がないレベルのザ・クイックスターターである十倉栄依子がとった行動は、待つことでした。

親友が実は年上かもしれないなんて、わりと気になる話です。本人に直接聞きたくなっちゃうところですが、十倉栄依子は花名ちゃんが口を開くのをただ待っていたんですね。結果的に偶然たまたま花名ちゃんの同中の人が転入してきて変なことを口走ってしまい、花名ちゃんに事情を聞かないと不自然な状況になってしまったので、十倉栄依子は結局のところ本人に直接聞いてしまいます。が、偶然そんなことが起こらなければ十倉栄依子は花名ちゃんが口を開くのをずっと待っていたことでしょう。大事なのは待つことです。

篤見唯子「スロウスタート」第4巻 芳文社 p.81より

全てを知った上で見ると、このページの十倉栄依子なんて明らかに花名ちゃんに「花名は同い年に見えるよ」というメッセージを相手に気取られぬように飛ばすことで、いろいろ気にし過ぎな花名ちゃんを励まそうとしていますよね。十倉栄依子、恐ろしい女・・・。

やっぱり花名ちゃんの周りでは、歩みが速い人はそうでない人を待って、助けて、励まして、気遣っています。

©篤見唯子・芳文社/スロウスタート製作委員会 『スロウスタート』3話より

一方で花名ちゃんといえば勉強が得意です。高1の勉強って大して範囲が広くないので、高1の時点で1年多くみっちり勉強することができたのはめちゃくちゃデカいアドバンテージです。花名ちゃんにとっては1年遅れのスロウスタートですが、3人からすればフライングです。しかも花名ちゃんは数学が得意なので、数学に関してはフライングした上に走るのもメッチャ早いという状況です。花名ちゃんは走るのが遅い人の代表みたいなツラをしていますが、べつにすべての分野において走るのが遅いわけではなく、当然ながら人より少しは進んでいる分野が一つくらいあるわけです。誰だってそうですよね。

それで、花名ちゃんはみんなよりずっと勉強が得意な状態なんですが、比較的勉強が得意ではない3人のことをバカにしたりからかったりすること無く、しっかり丁寧に勉強を教えています。万年大会だって皆に勉強を教えていましたね。スタートが早くて足も速い方は、ちょっと先に進んじゃっても、立ち止まって待っていてあげればそれでいいんです。歩みが早い人は、そうでない人に寄り添ってあげれば良いのです。スロウスタートという漫画は、そういう、人に寄り添うということを描いた漫画です。

風の声を聴きながら

ええっ?「なんで先を進んでるからって、足の遅いやつを待ってやる必要があるんだ」って?

うーん確かにその気持はわからなくはないです。足が遅いやつは怠けていただけ。スタートが遅いのはマヌケ。待ってやる必要なんて無い。言いたくなる気持ちもチョッピリわかります。いや、やっぱ全然わからんな・・・人生の全部が描かれているスロウスタートという漫画がおれたちに伝えることは、人生の全部は運だということです。

この漫画には、どうしようもない、避けようのない不運でスタートが遅れてしまった人が登場します。おたふく風邪で受験ができなかった花名ちゃん。物理的に滑ってコケてしまい受験ができなかった万年大会。変な親戚のせいで行けるはずだった会社に行けなかった京塚志温。遺伝のせいで身長が伸びない千石冠なんてのも居るかもしれません。ね。みんな運でしょう?当然ですが、自分の遺伝子とか、生誕する家の家族や親戚などというものは自分ではどうすることもできません。今から触るドアノブにおたふく風邪のウイルスが付いているかもとか、2秒後に足を滑らせて気絶するかもなんてことも、運としか言いようのないことです。

スロウスタートという漫画の顕著な特徴は、浪人生を扱った漫画でありながら、実は学力の問題で浪人した人が1人も登場しないという点です。花名ちゃんは少なくとも滑り止めに受かるくらいの学力はあったでしょう。万年大会だって受験さえできていれば合格はできたでしょう。京塚志温も内定はもらっていました。全員、本人の努力とはまったく関係のない、完全に運で決まる理由で浪人しているのです。

©篤見唯子・芳文社/スロウスタート製作委員会 『スロウスタート』2話より

ただし、(この段落は完全に余談ではあるんですが)おれとしては学力だって運だと思うんですよね。自分語りが入っちゃって申し訳ないんですが、おれだってシレッと浪人も留年もせずに18歳で大学に入って留年せずに22歳で卒業しましたけど、それはおれがしこたま頑張ったからとか、おれに勉強の才能があったからとか、意思が強かったからとか、そんな理由では全くなく、単にめちゃくちゃ運がよかったからです。うちの学科は厳しいので3割の人が1回は留年する学科です。あのとき勘でマークした選択肢が1じゃなくて2だったらおれは留年していたかも・・・とか、あのとき教科書を買うお金が無かったら・・・みたいなことはよく考えます。おれたちが努力の結果たる学力だと勝手に思っているものは、実は、生まれたお家の収入とか、小学校のときに出会った教師とか、あのとき本屋で目について手にとった参考書とか、運命のセンター試験でサイコロを振ったときの指の力とか、そんな理由で大幅に変わって来るわけです。なので、学力と言われているものだって、その全てか、そうでないとしてもかなりの部分が運で決まっているとおれは思います。とはいえ、そうは思わない人もいるので全員100パーセント運だけが原因だと断言できる理由で浪人している設定なんでしょう。

さて、いずれ来るであろう花名ちゃんが浪人を告白する回については、内容が前々からいろいろ予想されていました。おれの予想としては、やっぱり何か大きなきっかけとなる出来事が起こって、花名ちゃんが決心をして自分の口から言うんだろうな、なんて思っていました。

でも実際は違いましたね。転校生・億果実との出会いによって、花名ちゃんの意思とは関係なく浪人がバレてしまうという展開です。おれはこの話を読んだときに「えっ、なんでそんなかわいそうな展開にしたの・・・億って誰やねん・・・」という感想を一瞬だけ抱いたんですが、この感想は完全に間違っているんですよね。浪人のことが知られてしまうという一大イベントがこういう着地点を迎えたのは、人生の全部が運だからに他なりません。

篤見唯子「スロウスタート」 『まんがタイムきらら』2020年05月号 (2020年4月9日発行) p.19

四天王が億果実と出会ってしまって、話の流れで浪人がバレてしまったのは、全部運のせいです。中学時代の花名ちゃんのことを知っている人が星尾女子高校に転入してきてしまったのは運が悪かった(あるいは良かった)からですし、あのとき花名ちゃんが学校の廊下に居たのも運が悪かった(あるいは良かった)からですし、あのときみんなが花名ちゃんの名前を大声で呼んでいたのだって運が悪かった(あるいは良かった)からです。どれも必然的に決まっていたことではないし、事前に回避できることでもありません。

浪人バレ回避のためにわざわざ長乃県の爽井沢まで引っ越したところで、花名ちゃんの意思とか決意とは関係なく、運でバレてしまったのです。「特別じゃないなんでもない日」に。だって運でバレたんだから、特別な日であるかどうかなんて関係ないですもんね。運で浪人してしまった花名ちゃんは、運で浪人がバレるという結末を迎えます。たまたま、偶然、思いがけず、運でバレてしまったのです。運で始まって運で終わるのがこの作品です。登場する浪人経験者全員が運で浪人しているというスロウスタートの特殊な設定を踏まえると、スロウスタートの大きなテーマの一つがこのような結末を迎えたのは、ものすごく納得の行くところです。

で、花名ちゃんにとって幸運だったことは、この「特別でもなんでもない日」の朝に、特別な夢を偶然見ていたことです。あの夢を見たことで、花名ちゃんとしては、浪人のことを自分から話してもいいかな、と思えるくらいの心の準備ができていたのです。あの夢を見ることができたのは、花名ちゃんが遠回りをしてきたからです。さっきも言ったように、1年くらいダブるのは花名ちゃんが考えるよりも、もっともっとずっとありふれた現象です。珍しくもなんともありませんし、恥ずかしくもなんともありません。「はよ言えや」と思いながらスロウスタートを読んできた読者も少なくないでしょう。大人からしたら実に取るに足らないちっぽけな隠し事を1年弱もの長い期間抱えてきたことは明らかに遠回りです。でも、ああいう夢を見ることができたのは、花名ちゃんが1年弱もかけて遠回りをして心の準備をしてきたからです。まさに「遠回りしてよかったでしょ」でしょう。突然浪人がバレるというショッキングな出来事が意外と丸く収まったのは、花名ちゃんが遠回りをしてきたからです。

あの夢を見ていたことを踏まえると、花名ちゃんは浪人がバレてしまって結果的にはよかったと思いませんか。意図しないタイミングでバレちゃったけど、結果的に3人は花名ちゃんのことを「なんでもないみたいに」「受け入れて」くれたことですし。花名ちゃんは「関係が変わるのが怖い」っておっしゃいますけど、「傍から見てる分には、話しても話さなくても変わらないと思」いますよ、おれも。花名ちゃんはもとから3人のことを信頼していましたし、何より今朝は良い夢を見ることができていたので、あとはキッカケさえあれば浪人を告白できる状態にまでなっていたんです。自分の口から切り出せなかったのは心残りがあるかもしれませんが、それを除けば非常に理想的なバレ方です。

それに、このままキッカケが無かったら、誰にも浪人のことを言えず、心にわだかまりを抱えたまま卒業まで行っちゃってた可能性もあります。それはそれでいいのかもしれないですけど、それはそれで悲しいですよね。だから、このタイミングで思いがけずにバレてしまったのは、わりとナイスかもしれません。アニメのオープニングに「勇気の魔法で打ち明けたい」なんて歌詞がありますけど、おれたちの背中を押してくれる勇気の魔法って、周りに溢れている偶然のことなのかもしれないですよ。考えすぎでしょうか。


おれたちはボートに乗っています。ボートは風の力を受けて、南に進んだり、東に進んだり、1秒で10センチだけ進んだり、5メートル進んだりします。今は南風が吹いていても、1秒後に船にぶつかる風の向きと強さは完全にランダムになっていて、運で決まります。したがって、進むのが遅くていつまでたっても出発地点の近くをウロウロしている運の悪いボートもあれば、いち早く最短距離で目的地までたどり着いてしまう運の良いボートもあります。おれたちがボートに乗る上で大事なのは、進むのが遅くても焦らないこと。進むのが速かったら、先に行って進むのが遅い人を待っていてあげること。そうやって、おれたちは花名ちゃんたちみたいに――風の声を聴きながら――生きていくことで、どこまでも行けるのです。ひとっ飛びで。

やっぱりどう考えたって、おれたちの身の回りに起こる出来事の全てか、そうじゃないにしてもかなり多くの部分は運で決まります。スタートの時刻も、走る速さも、向かう方向も、運で決まります。いろんなところで転んだり、いろんなところでドアノブを触ったりしておれたちは生きています。本当にどうしようもない世界だけど、でも、花名ちゃんが素晴らしい友達に出会えたのも、浪人のことを打ち明けて新しい一歩を踏み出すことができたのも、花名ちゃんたちが風の声を聴きながら生きてきたからです。おれたちは全部が運で決まるクソみたいな世界を生きていますが、花名ちゃんたちみたいに生きていくことで、しあわせが(ゆっくり)はじまるのかもしれません。今月も花名ちゃんに良いことがあって本当によかったです。おれは花名ちゃんに良いことがあると自分のことのように嬉しいんですよ。マジで。

せろりんでした。

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